Pitschen Prinzi

日々のメモ

洗いもの

最近その日のうちに洗いものをするようになった。

 

以前は眠かったり面倒だったりして

次の日に回しちゃうことがよくあったけど

朝起きた時に洗いものの存在を思い出すと

少し気分が落ち込んでしまうし。

 

夜寝る前に「面倒だなあ」と思ったら

頭の中でひとこと言う。

「明日にしてもいいけど、ツケを払うのは自分だぞ」

って。

面倒だけどやるかあ、と思えるようになる。

 

実際やってみれば

ひとり分の食器なんてたかが知れているものだから

5分もかからず洗い終わる。

 

朝にはもちろんシンクはきれいだし

朝やらなきゃいけないことがすこし減る。

ちょっとだけうれしい。

 

昔から何でもかんでもゆっくりだから

何かをやり始めるのも遅いし

始めてもなかなかエンジンがかからない。

 

今年の目標は

昨年から引き継いだものも含めいくつかあるけど

そのうちの一つに

「自律」がある。

 

自分の中では難しいことナンバーワンかも。

なにかと自分を甘やかしてきた人生なので

達成には時間がかかるかもしれないけども

「一日を懸命に生き」て

「一日を積み重ね」ていったら

少しは何か変わるのかなって

引用だけど。

 

と、ここにはこちゃこちゃ書いたけど

人にとやかく言われるのは苦手なので

(そりゃみんなそうか)

あくまで自分の中での「やりたいな」なのでした。

ごめんね

自分に非があると思えば
すぐに謝ることのできる性格だけど
そのぶん近しい人にほど
感情の蓋が緩んでしまう

非がないようにすればいいのに
少しがまんすればいいことなのに
わかってもらえない悲しさの方が
先に走り出してしまう

相手をわかろうとすれば
ちゃんと相手に意識が向いていれば
抑えられることなのではないか
自分は相手を見ていないのではないか

結局わたしだって自分本意な人間で
傷つけられたぶん傷つけているように思うし
相手がそれに気づいていなくても
わたし自身は気づいている

ごめんね

4文字の謝罪に頼って
蓋を緩め続けていたら
とんでもないものを失ってしまうと
わかっているのか

遠く

2015年は1度もブログを書かなかった
気づいたら1年が過ぎ去っていた
目の前の日々で精いっぱいで
振り返る間もなかったというのが正直なところか

学習意欲は高まれど
ちらりちらりとつまむばかり
急に興味の範囲が広がって
追いつきやしない

久しぶりにTVでニュースを見て回ったら
紙で読んで思っていたよりも
世界は混迷を極めていた
映像の力が強いのか
わたしの想像力が足りないのか
そのあと見た日本のニュースは
五輪のエンブレム問題だった


何も知らなくて悲しくなる
考える力が弱くて落ち込む
いま気づけただけよかったのか
もっと早く気づけたんじゃないのか

やり直せるなら高校から
できることなら中学から。
後悔先に立たず
あんなに言われていたのに
思う存分勉強できるのは
学生のうちだけだからと


あと2カ月ほどで26になる
26になるのはこわくない
同学年はほとんどもう26だし
25も26もそう変わらない

だけど今、歳をとるのが怖い
相応の大人になれている自信がない
相応の知識を持っている自信がない
相応の考えを構築できる自信がない
26とはどんなところだろう

ある日ふと気づいたら
ずっと大人になっているんだろうか


あの日々から8年
日本に帰ってきて9年
あの国に行って11年
ずいぶん遠くまできたもんだ

戻ることはできないから
せめてあの頃の水準までと
足掻いてみてはいるけれど。

随筆(のようなもの)

高校・大学時代に書いてきたものがそこらじゅうにちらばっている
むかしのブログ、レポート、メモだとか
会報にのせるために頼まれた原稿だとか
キャリアセンターに提出した書類だとか、ESだとか
コミュニケーションについて論じた卒論だとか。
そういったものがdropboxやUSBに残されている
わたしの学生時代の足あと。

共通していることがある。
どこでもかしこでも「何かを伝えられる人間になりたい」と書いている
遡るに、AO入試で書いた2000字の書類がすべての始まりのようだ
だけどどこにも書いていない
「何を」伝えたかったのか。

自分のことについて書くことを思うとわくわくした
何も成し遂げていない人生のくせに
自分を伝えられるというのはうれしいことだった。

ずいぶんと鼻につく文章をみつけてしまった
たぶん19のころに書いたものだと思う
もっと視野を広く持つことはできなかったのか
自分の世界に入り込んでいる印象をうける。
そのあと世界はすこし広がったから
ちょっとはましになっていることを祈るばかりだ

残されている文章から伝わってくるのは
「自分のこと」ばかり。
結局あのころのわたしは
自分の思いを押し付けたかっただけなのではないか
人に影響を与えようだなんて

本来わたしは人に会って話をするのが好きだった
自分が見聞きしたこと
人が見聞きしたこと
いろいろ関連付けながら話していくのは楽しい

社会人になってから、人に会う機会がほとんどない
休日は不定期、夜は仕事、昼まで寝ている
自分の中に新しいことを取り込む機会がない
知識としては取り込んでいるが
体験していることがあまりに少ない
取り込むことがないと話せることもない
仕事のせいではない
仕事のせいにしている自分のせいだと知ってはいる

無理矢理外に出てでも
新しいことを吸収していかなければと思う
人の話を聞くばかり
楽しませることもできない。

何も考えていないような学生だったけど
毎日取り込むことだけはあったから
それなりの自分を形成できていた
いまは自分という人間が
何を楽しみに生きているのかがわからない

生きている
そうか生きているんだとたまに実感して
Twitterでつぶやいてみたりする
「生きているんだ」と

人に影響を与える人間になりたかったのか?
少なくとも
人に何かを薦められる人間にはなりたかったはずだ
いろんな視野を提供できる人間になりたかったはずだ
そのためには自分が消化していかなきゃいけないのだと
いつのまにか忘れていたのか
だから生きていることを忘れたのか
それは感情を失うことに等しい

人生と仕事を結びつけて考えた
そうやって就活をした
それは間違っていなかったはずだ
少なくとも3年目の今はまだ。

今の仕事を選んだことは
自分にとって本当にいいことだったと思う
だからこそ仕事のせいにはしたくない
これは自分のひとつのベースだ

たとえ自分のことしか伝えられないような
そんなちっぽけな人間であっても
自分という存在をなくしてしまったら最後だ
そんなことを書き残すことしか
この人生でできなくても。

6歳のわたしへ

という手紙をさっき書いていた。

便箋に書いても過去の自分に渡すすべはないので

ワードでぽつぽつ。

 

3000字くらい書いたところでとても悲しくなってやめた

なんでだろう

なんでだろう

どうして私は悲しくなったんだろう

 

しばし手をとめて考えこんだ

いちばん近いと思うのは

自由であるという恐怖

 

あの頃が自由だったというのではない

言ってみれば今がいちばん自由だ

ひとりぐらし、社会人、パートナーもいない

ぜんぶ自分で選択しなければいけない

選択の責任がすべて自分にかかる

 

人とうまくやっていかなければいけない

踏み外したらどうしよう?

中学生みたいな恐怖心

大人になったってみんなやっていることは同じ

仮面をつけるのがうまくなっただけ

 

いま、藍坊主の「水に似た感情」が流れた

せつなさが色を帯びる

無色透明の色を帯びている

…そう、まさにそんなかんじ

とてもめんどくさいと

思ってはいけないと思いながら。

 

ひとを好きでいることはしんどい

たくさん傷つかなければいけないから

それならみんな嫌いになれればいいのか

残念ながらもっと傷つくはめになる

それなら嫌いにならないほうが楽なのに

なぜひとはひとを嫌いになるんだろう

 

もうちょっと考えたいけど

ねむいから寝る

おやすみなさい

むかしのこと

わたしは昔のことを思い出すのがすきだ
とくに好きなのは高校と大学時代
わけもなく楽しかったと思う
それはきっと責任もなにもなくて
自分自身を捉えきれてもいなかったから。

あの時代はもう2度と戻ってこない
いまからでも遅くないなんて慰めはウソだ
どんなにがんばったって
あのとき楽しかった以上にその楽しみ方はできない
それはあのころより大人の
またすこし違った楽しみ方になってしまう

懐古主義か?
それはちょっと違う

あのころが一番よかったと思ったら
人生はつまらなくなる一方だという
それは本当にそうだと思う
たとえば今がつまらなかった場合
この先はもっと楽しくなっていくと思えなかったら
生きていくのはとても大変だ

だからわたしはたぶん
まだ未来に希望を持っている
明日はきっと今日より明るいと思っている

(遠い将来のことは本当はあまり考えたくない、
日本の未来はそんなに明るいものじゃなさそうだから。
せいぜい平和に、あしたのごはんの心配をせずに
大切な人と手をつないでお散歩できる未来がくればいいな)

そのときその瞬間を
せいいっぱいたのしめる人間であれたらと思う
だけどテンションの低い人間でもある
低空飛行でいることが自分にとっていちばん楽しい、
そんな日だってある。

はしゃいでる自分も
ただ存在するだけの自分も
その時々でそれなりに楽しんでいるのだから
あの時は楽しかったとか
そういうことを思い返すのは懐古主義じゃない

過去をなつかしむことは大切だ
その過去が今のわたしを形づくっている
過去の自分をうらやむのも結構なこと
むかしの自分に学ぶことはたくさんある。

先日ふしぎに思ったこと
大人はなぜ子供のきもちがわからないのだろう?
わたしだって子供だったことがあったのに
それはいまを生きてしまうから
あの頃にはもどりたくても戻れない

昔のことなんてどんどん忘れる
だから戻れる時には戻れる限り
記憶のかぎり巻き戻す
思い出は修正されてしまうから
美化されていたり、誇大化されていたりするもので
できるだけ公正であれたらいいけれど。

たとえば若い人たちに
じぶんの経験をはなす機会がある
こんな話役に立ちやしないだろうと思いながら
だけどわたしも先輩の経験は聞きたいと思いながら
そんなところに生じる自己矛盾
自分が思うほど相手は重く考えちゃいない。

じぶんの都合のいいように修正された記憶を抱えて
生きていくことは自己満足では?
自分が生きていることで
社会に影響を与えたいなんて驕りだと思う

いろんな歌詞にもあるとおり
「自分がいなくても世界はまわってく」
だけどいまこの瞬間には
自分はここにしかいないんだな

(今より)若かった頃はよかったなあと思うけど
ずっと若いままでいたいかといったらそうじゃない
歳をとっていくことは楽しいことのはずだ
明日のわたしは昨日のわたしより
ほんのすこしだけモノをしっている
若いままでなんかいたくない。

こないだふと卒論の結論を思い出した
「我々のコミュニケーションの距離感は生涯かわらないだろう」
この先いろいろなサービスが出てきて
いつかついていけなくなる日がくる
でもそれはドロップアウトじゃない

無理してついていっても
結局わたしたちがいま上の人たちに感じているように
年代間のギャップは少なからず出てくる
そのギャップは無理に埋めるようなものじゃない
認めていける自分でいなければと思う。

時にむかしの自分を切り離したくて
ブログを変えることがある
むかしがどんなに楽しくても
決して固執していない証拠ではないだろうか
そんな行動に少なからずほっとしている

本当はいつだって
うしろばかり振り向いていないか不安に思っている
だけど定期的に振り返ることで
過去をだきしめてあげることをやめてはいけない。

独立記念日

5月5日はわたしの独立記念日

実家を出て、ひとり暮らしを始めた日。

このまま実家にいたらダメになると思って

住みたかった街に越してきたのが1年前でした。

 

1年間

それなりに暮らしてきました。

ひとりになった喜び

親不幸かもしれないという悲しみ

居場所を見つけては失って

日々を無為に過ごしているなと思うことも。

 

最近はいろんなことが落ち着いてきたように感じられます。

なにかに悩んでも

周りに答えを見つけられるようになりました。

 

たとえば昨日の夜は

生きていくことに理由がいるのかと悩んだけれど(陳腐な悩み)

今日見に行った舞台で主人公が叫んでた

「死んじゃったらなんにもなんないだろう」

友達はこう答えた

「死んでいく前になにかを残したい」

 

もちろんそれがわたしの答えではない。

だけど大多数が通る道なのだろうという検討はついたし

それでもみんなちゃんと生きているんだから

そのうちに納得できる「理由」も見つかるだろう。

人生が長いことを難しく考えすぎてはいけない。

 

答えは風に吹かれている(ボブ・ディラン

たとえ誰にもつかめなくても

自分が納得できればいいじゃないかと思う。

 

自分の周りに答えを見つけられるようになったというのは

もしかしたら視野が狭くなっていて

自分のほしいものだけを選択しているのかもしれない。

だけどわたしとしては

すこし成長したからこそのことだとも思う。

 

その時々で自分に必要なものを選びとりながら

この1年間を消化してきたのでしょうか

結果がつぎはぎだらけでも

たまにおなかを下しても

自分で選択するというのはなんと素晴らしいことだろう。

 

あとすこししたら好きな季節がくる

今年の5月5日は立夏だった

暦の上ではもう夏だ。

つぎの1年間はいろんなものを脱ぎ捨てて

身を軽くしてみるのもいいかもしれない。